超個人的刑法総論レジュメ③ (刑法の適用範囲)

第1章 刑法総論序説

Unit3 刑法の適用範囲

Ⅰ.刑法の場所的適用範囲

1、属地主義

 「日本国内」で行われた犯罪は、日本刑法の適用がある(§1Ⅰ)

 ※国外にある日本国籍の船舶・航空機についても同様(旗国主義)(§1Ⅱ)

 ※犯罪行為地の一部でも日本国内にかかっていれば、日本刑法の適用可(遍在主義)

 ※共犯行為が国外であっても、正犯行為が国内であれば、共犯に対する適用可

2、属人主義

規定されている犯罪において、日本国民であれば国外犯でも日本刑法の適用可[1](§3)

→二重処罰の危険性

⇒刑§5に調整規定(ただし、任意的減免規定)

3、保護主義

 日本刑法でないと保護されない法益に対する罪については、行為者・行為地の如何を問わず日本刑法の適用可(§2)

4、消極的属人主義

 一部の犯罪については、日本国民が被害者である場合の国外犯について日本刑法の適用可(§3の2)

5、世界主義

 人類共通の法益に対する罪に対して、行為者・行為地の如何を問わず日本刑法の適用可(§4の2)

 

Ⅱ.刑法の時間的適用範囲(←遡及処罰の禁止)

1、犯罪時

 実行行為が行われた時点で、罰則が施行されていることが必要

2、刑の廃止

 犯罪時に罰則が存在しても、裁判時に罰則が存在しない場合(すなわち刑が廃止された)は、免訴の判決が言い渡される(刑訴§337②)

 ※「従前の例による」規定に注意

3、刑の変更

 犯罪後に刑が変更された場合には、その中で最も軽い刑で処断される(§6)

 

[1] ただし、警察権はその国家固有のものであることに留意する必要がある。

超個人的刑法総論レジュメ② (罪刑法定主義)

前:https://georgestan.hatenablog.com/entry/2019/04/02/021841

 

第1章 刑法総論序説

Unit2 罪刑法定主義

Ⅰ.罪刑法定主義の意義

1、罪刑法定主義の定義

 →何が犯罪となり、それに対してどのような刑罰が科せられるかは、あらかじめ法律で定められなければならない

 ※根拠条文…憲§31

2、実質的背景

 (1)民主主義的要請

   何が犯罪として処罰の対象となるかは、国民が正当に選挙された国会における代表者を通じて自ら決定する

 (2)自由主義的要請

   何が犯罪かは事前に定められている必要がある

   →行動の予測可能性を保障し、それに伴う行動の自由も保障できる

 

Ⅱ.罪刑法定主義の派生原理

1、法律主義(←民主主義的要請)

 (1)定義

   何が犯罪となり、それに対してどのような刑罰が科せられるかは、国会が法律により定める必要がある

 (2)射程

   ・慣習法、条理などの不文法…×

   ・条例…○ (∵民主主義的要請を実質的に満たしている)

   ・命令、規則…△ (憲§73⑥但書参照)

    →法律による特定の委任がある場合は可能

     ※その委任の程度には留意する必要あり

2、(被告人に不利益な)事後法の禁止(←自由主義的要請)

  事後的に罰則を遡及して適用し、処罰することは許されない(遡及処罰の禁止)

  ※憲§39参照。

  ※犯罪後に刑を重くする場合にも当てはまる

  ※公訴時効の事後的延長、判例の不利益変更の問題

3、(被告人に不利益な)類推適用の禁止(←自由主義的/民主主義的要請)

  ※拡大解釈は許される

4、絶対的不定期刑の禁止(←自由主義的/民主主義的要請)

  ↳法律でおよそ刑種や刑の程度を決めない場合

5、明確性の原則

  どのような行為を犯罪とするかは明確に規定しなければならない

  ⇔ある程度の抽象性は必要

  ⇒?「どの程度明確性が要求されるのか」

判例1】最大判S50・9・10刑集29巻8号489頁(徳島市公安条例事件)

(事案)Xは徳島市内において反戦運動として集団示威行為に参加し、蛇行進をするなど交通秩序の維持に反するような行為を行った。そこでXは徳島市公安条例3条3号に基づいて起訴された。

(争点)同条例同条同号の「交通秩序を維持すること」は明確性の原則に反し、違憲ではないのか。

最高裁は、明確性は「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読み取れるかどうか」により決定すべきであると述べ、徳島市公安条例はそれを満たし、合憲であるとした。

6、内容適正性の原則

  処罰の内容・範囲は適正でなければならない

判例2】最大判S60・10・23刑集39巻6号413頁(福岡県青少年保護育成条例事件)

(事案)XはAが16歳であることを知りながら性交した行為につき、本条例10条1項[1]・16条1項に基づき、起訴された。

(争点)①10条1項の「淫行」は明確性に反しているのではないか。

②10条1項の「淫行」は内容適正性に反しているのではないか。

最高裁は、「『淫行』とは、広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきではなく、青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為のほか、青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱っているとしか認められないような性交又は性交類似行為をいうものと解するのが相当」と述べ、このように解せば、明確性・内容適正性に反しないとして、合憲とした。

※この判断には、この解釈は徳島市公安条例事件の基準に適合しているのかという批判がある。

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【補足】

このレジュメであげられている判例1と判例2の事件は、刑法学というより憲法学や行政法学の重要判例です。詳細な説明はそちらの分野の教科書に書かれていることが多いです。

 

[1] 「何人も、青少年に対し、淫行又はわいせつな行為をしてはならない」と規定。

超個人的刑法総論レジュメ① (刑法及び刑法学の意義と機能)

※私はとある大学で刑法学を専攻しています。その際、刑法学を自分で勉強するために、自分で個人的なレジュメを作成しました。これを順次公開していきたいと思います。(誰得だよ!と自分でも思います。)

参考文献としては、松宮『刑法総論講義(第4版)』(成文堂、2009年)、山口『刑法総論(第2版)』(有斐閣、2007年)があります。版が最新のものではありませんので、アップグレードできていない部分があるかもしれません。ご了承ください。質問やご指摘がある場合は、コメントの方によろしくお願いします。

Unitごとに分かれていますが、Unitは松宮先生の教科書に準拠しています。

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第1章 刑法総論序説

Unit1 刑法及び刑法学の意義と機能

Ⅰ.刑法の定義

 ・刑法(広義、実質的意義の刑法):いかなる行為が犯罪であり、それに対していかなる刑罰が予定されているかを規定した法。

  [ex]軽犯罪法道路交通法116条など

 ・刑法(狭義、形式的意義の刑法):「刑法」という名称の法律。刑法典。

※刑法(狭義)第1編総則の規定は特別の規定がある時を除いて、他の刑法(広義)にも適用される。(刑§8)

 

Ⅱ.刑罰論

1、刑罰の定義

 犯罪に対する反作用、犯罪を遂行した者に対して科せられる制裁。

2、刑罰の種類

 単独に言い渡すことのできる主刑と主刑と合わせてしか宣告できない付加刑に分かれる。

 (1)主刑

 主刑は生命刑、自由刑、財産刑に分かれる。

 a.生命刑

 →死刑。

 b.自由刑

 →懲役、禁錮、拘留。

 拘留は30日未満の短期自由刑。懲役は刑務作業が科されるが、禁錮にはそれがない。

 c.財産刑

 →罰金、科料

 罰金は1万円以上、科料は1000円以上1万円未満の財産刑。

 完納できない場合は労役場に留置される。

 (2)付加刑

 →没収、追徴。

 犯罪生成物件、犯罪組成物件、犯罪取得物件、対価物件を没収する。犯罪取得物件、対価物件の全部または一部を没収できない場合はその価額を追徴できる。

3、刑罰の正当化根拠

?「刑罰はどういう理由でこの社会に存在しているのであろうか。」

 (1)応報刑

  ↳刑罰は犯罪に対する当然の報い、目的を持たない

  →犯罪と刑罰の均衡

  ⇔目的のない害悪を存在させて良いか

 (2)目的刑

  一般人を対象とした一般予防と犯罪者を対象とした特別予防がある。

  a.一般予防

  一般予防はさらに消極的なものと積極的なものに分かれる。

  ①消極的一般予防

  ↳刑罰を見せしめとして人々が罪を犯さないように威嚇する

  ②積極的一般予防

  ↳刑の予告、裁判での宣告によって人々の自律的な規範意識の維持または強化

  ⇔犯罪者を道具として扱っているのではないか

  b.特別予防

  ↳刑罰を科すことで犯罪者の改善・教育をはかる

  →執行猶予制度、仮釈放制度

  ⇔常習犯に対してのはるかに重い刑罰の正当化

  再犯可能性のない犯罪者には重大犯罪であろうと刑罰を科せない

 ※通説:相対的応報刑

   ↳応報刑論の範囲内で特別予防を考慮

 

Ⅲ.刑法の重要原則

1、法益保護主義

 刑法の任務は法益(法的な保護に値する利益)を保護すること

2、刑法の謙抑性

 刑罰は最も厳しい法的制裁であるので、できる限り避けたほうが良い

 →刑罰は他の法益保護手段では足りないときにのみ使用されるべき(刑法の補充性)で、刑法による保護の領域は包括的ではなく断片的なものでなければならない(刑法の断片性)

3、責任主義

 犯罪には責任(=非難可能性)がなければならず、刑罰の程度もその行為の責任に見合ったものでなければならない

4、罪刑法定主義

 Unit2で解説。

キャラクター社会におけるキャラクターの成立と維持のメカニズム

Ⅰ.序論

(1)はじめに

以下のような記事[1]がある。

「キャラ 演じ疲れた

 『私、キャラ変えしたいんです。このままじゃ、自分が馬鹿になりそう。』山陰地方のある中学校に設けられた相談室。夏の初め、臨床心理士の岩宮恵子さんのもとを制服姿の女子生徒が訪れた。(中略)『フツーの子の思春期』の著者でもある岩宮さんは、『この5年ほど、中学生からキャラという言葉をよく聞くようになった。』という。『いじられキャラ』を演じることで、クラスに何とか居場所を作っている子がいる。『毒舌キャラ』と呼ばれている女子生徒は腹が立つと歯にきぬ着せぬ言葉をはく。そんな子も『最近周りに毒舌を期待されて疲れる』と悩んでいる。」

 上記のように、最近若い人たちを中心に、集団にいるときには特定のキャラクターを演じて、かりそめの自分として他者と接する人が増えてきている。そして、そのかりそめの自分を演じることに疲れ、大いに不安を感じてしまう結末に至っている。上記の記事はもう10年以上前のことだが、この傾向はさらに強くなってきているように思われる。例えば、twitterのアカウントを複数個持ち、そのアカウントごとにキャラクターを付与し、そのキャラクターを演じ分けているというような若者は決して少なくない。

 この現象の特筆すべき点は、仮にキャラクターを演じることに疲れたとして、その集団に所属しようとする限りは、そのキャラクターを演じ続けているということだ。なぜ、いわゆる「キャラ疲れ」してまでも、そのキャラクターを演じようとするのか。本稿は、それに対して「キャラクター」という存在の持つ本質を踏まえて回答しようとするものである[2]

(2)用語設定

 本稿では、叙述のために次のような用語を独自に設定する。

 まず、characterを日本語化されたいわゆる「キャラクター」としての意味と捉えず、英語の字義的な単なる「人格」としてとらえる。そして、個人の持つcharacterは以下の2つに分けられる。まず、本来その個人が持っているtrue characterである。いわゆる一般的・俗語的に言われる「素の自分」であり、(1)で示したような集団空間では表出しない。自分だけのプライベート空間のみで向き合うことができるcharacterである。次に、pseudo characterである。これは、(1)で示したような集団空間で個人が演じる「かりそめの自分」である。先ほど触れた、日本語化されたいわゆる「キャラクター」はこの意味で使われていると言えよう。

 最後に、本稿が対象とする集団空間は、特に断りがない限りは、「共同体」や「社会」といった言葉を聞いて我々がイメージするような大規模集団ではなく、クラスの仲良しグループやSNSでのつながりといった小から中規模程度の集団である。その意味を込めて、その集団をclusterと呼称することにする。

 

 

Ⅱ.個人がpseudo characterを付与する/されるプロセス

(1)はじめに

 ここでは、上記で設定した回答に答える準備段階として、個人が集団に所属するにあたってどのような過程を経てpseudo characterを付与する/されるのかを見ていくことにする。あえて、表題に「演じる」ではなく「付与する」としたという点に注意されたい。

 以下、3つのパターンに分けて説明する。

 

(2)clusterそれ自身が個人に特定のcharacterを要求しているパターン

 clusterが(主にそのclusterに個人が加入しようとする際に)個人に特定のcharacterを要求しようとする場合である。そして、そのcharacterはそのcluster自身にとってはtrue characterである方が望ましいのであるが、pseudo characterであっても確認しようがないのである。なぜなら、Ⅰ(2)で述べたように、true characterはその個人のプライベート空間でしか現出されず、その空間にclusterが立ち入ろうとすることは現代社会においてはご法度だからである。

 個人が当該clusterに加入しようとすることを前提とすると、当然個人はその要求されたcharacterに合わせようとする。ここにおいて、そのclusterは個人にpseudo character(奇特なことにその要求されたcharacterが個人のtrue characterに一致することもあるかもしれないが、あくまでもそれは奇特と言わざるをえないであろう。たいていの場合は一致せず、pseudo characterになるものである)を付与することになる。

 具体例を出せば、政治結社(特定の政治思想を持っているというcharacterを要求)、学会(特定の学問におけるそれに対する真摯な姿勢というcharacterを要求)、twitterなどのSNS上におけるクラスタ[3](特定の人物・商品を好んでやまないというcharacterを要求)に個人が加入しようとするときである。一番明快な例として挙げられるのは、企業へ学生が採用されようとする過程(いわゆる就職活動)であろう。面接の際、企業が要求しているcharacter(たいていの場合はコミュニケーション能力だとか誠実さとかリーダーシップ)を受けて、学生は、さもその要求通りのcharacterがあるかのようにふるまう。いわゆる就活本にもそのcharacterがある「かのように見せる」ためにはどうしたらいいか、どう返答すればよいか、ということを平然と述べている。もはや、pseudo characterを前提としたような記述と言えよう。この時、学生はpseudo characterを企業に付与されているといえるのである。

 そして、このパターン上におけるclusterは特定の目的をもって設立されたclusterであることが多い。何らかのcharacterを要求する理由としては、その目的達成に適した人物をclusterが求めるということが多いからである。上記であげた例の中のclusterも目的が先行してるclusterである。

 

(3)clusterの構成員からcharacterを付与されるパターン

 (2)では、特定の目的を持ったclusterがその目的に準じたcharacterを個人に付与するというパターンを見た。では、クラスの仲良しグループのような、集団状態が目的に先行したclusterではどういう過程を経るのであろうか。それを説明するのが、ここと以下の(4)である。

 clusterの構成員は新しい構成員が加入してきたとき、コミュニケーションをとるため、そのcharacterを測ろうとする。しかし、どうやっても、officialとprivateが明確に区分された現代社会ではtrue characterは知りえない。そこで、その構成員が知りえる情報(主として外見的特徴や属性)を断片的に過大評価・論理飛躍して、特定のcharacterを付与する。正確に言えば、それを「期待」する。

 例えば、ここに体型が太っている人がいたとしよう。我々はその人物を見た際、本当にそうであるかは関係なく、大食漢であることを期待する。ここにおいて、我々はその人物に対して「大食い」というcharacterを付与しようとしているのである。よく巷を騒がせているジェンダーバイアスもこの一種と言えよう。ガッチリとした男性を見れば、我々はそこに「勇敢さ」とか「酒豪」といったようなcharacterを期待し、細身の女性を見れば、そこに「おしとやかさ」や「清楚さ」といったcharacterを期待する。

 そして、こういったcharacterの期待は、その個人が本当にそうであるかは問わない。なぜなら、その周りの構成員が知りえる断片的な情報のみに基づいて作られたものだからである。こうして、clusterの構成員は個人にpseudo characterを付与していくわけである。

 

(4)加入する個人が自らpseudo characterを付与するパターン

 ここでは、clusterに加入する個人が自ら「かりそめの自分」を付与しようとする過程を見ていこうとするわけだが、その動機としては、なぜ個人はpseudo characterを演じようとするのかという動機と同義であるので、ここでは詳しく述べない。後述する。

 

(5)小括

 Ⅱでは、3パターンに分けて個人がpseudo characterを付与する/されるプロセスを見ていった。

 特定の目的を持ったcluster空間では、目的達成のためにその目的に応じたcharacterが加入の際に個人に要求されている。集団性が先行したclusterでも構成員は個人に断片的情報からcharacterを期待している。

 では、ここで新たに疑問が生じるわけであるが、なぜ個人はそうやって他者から付与されたpseudo characterを受け入れ演じようとするのであろうか。もしくは、なぜ個人はそのclusterの中で自発的にpseudo characterを演じるのであろうか。次のⅢ・Ⅳでこの問いの回答を試みようと思う。

 

 

Ⅲ.true characterの隠匿

(1)はじめに

 このⅢと次のⅣでは、付与する/されたpseudo characterを(それを演じることに不安を抱いても、換言すれば「キャラ疲れ」してまでも)なぜ個人は演じようとするのか、という問いに答える。この問いに答えるため、「犠牲を払ってでもpseudo characterを演じなくてもよくするための」代替方法を2つ考える。「この代替方法を何らかの理由で個人が採ることができない/採りたがらない」といえれば、個人が多大な負担を抱えてまでもpseudo characterを演じなければならないといえるわけである。

 2つの代替方法として、1つは「付与されたpseudo characterを否定して、ありのままのtrue characterで他者と向き合う」である。これに関してはⅢで検討する。もう一つは「より犠牲の少ないpseudo characterに演じ替える」である。これに関してはⅣで検討する。

 また、注釈で若干触れたが、個人のpseudo characterを演じる要因を、個人の集団における承認欲求や所属意識それのみに還元するつもりはない。それも要因としてあるだろうが、それのみであれば、現代社会においてこういった個人が増加していることを説明できない。なぜなら、そういった欲望は集団で個人が生きるようになってから普遍的に全時代的に備わっているものであるからである。

 

(2)平凡化する個人とtrue characterの隠蔽欲求

 「true characterをもって他者と接するようにすればよい」という方法は規範的・道徳的に言えば、これが正解なのであろう。たしかに、「かりそめの自分」ではなく「真の自分」で他者と接するということは、いかにも健全なコミュニケーションであるし、相応の社会性を身につけた個人であれば、これを希求するに違いない。しかし、結論から言えば、それを採ることは現代社会においては相当な覚悟と勇気が要することだと言わざるを得ない。

 現代社会に至って、各個人は、閉じこもっていた共同体的な閉鎖空間から、開かれた全世界的な空間へと強制的に放り出された。インターネットやSNSの普及によって、世界のあらゆる点に瞬間的にアクセスできるようになったのは周知の事実である。そして、このとき各個人は、そのほとんどが「平凡」へと埋没していくことになったわけである。ここでいう「平凡」とは、個性が消滅し「かけがえのない自分」から「かけがえのある自分」に転落することを指す。

 各個人がその各個性をどのようにして「かけがえのない自分」(アイデンティティーと言ってもいいかもしれない)への理論的根拠にするのかということを考えてみよう。それは、自分の当該個性と他者のそれとの比較によってである。競争原理と言ってもいいかもしれない。他者との比較において、その個性の自己の優位性を確認し、「かけがえのない自分」を獲得する。この意味で、まさしく「かけがえのない」なのである。代替可能性がないのである。

 現代社会においては、この比較対象となる他者の範囲が拡大してしまった。共同体的な社会においてはその共同体の中の他者のみが対象になっていたのに対して、全世界的な社会では比較対象は全世界の人類全体である。人類全体と競争して、あらゆる個人に優越した何らかの個性を持っている人間など、おそらく一握りしか存在しない。かくして、ほとんどの個人は「かけがえのない自分」から「かけがえのある自分」(代替可能な個人)に転落してしまった。

 「true characterをもって他者と向き合え」とは「『かけがえのある自分』を他者に示せ」と言っていることと同じである。先述のように、それには相当の覚悟と勇気を要する。そういうことができる奇特な人間はいるにはいるかもしれない。しかし、ほとんどはそういった事実から目を背けようとする。隠蔽しようとする。ここに、「かけがえのある自分」たるtrue characterを隠しておきたいという欲求が発生する。

 さらに、幸か不幸か、現代社会はそのtrue characterを隠蔽する可能性を提供している。それが、様々な制度や法が担保している「officialとprivateの厳格な区別」である。公的空間と私的空間を厳格に分け、その私的空間の私的性を保障した。つまり、現代社会における各個人はtrue characterの隠蔽場所を確保できるようになったのである。

 かくして、各個人はtrue characterの隠蔽欲求とそれを実現する隠蔽空間の保障を獲得し、pseudo characterを演じるという方法を採るようになったのである。

 

(3)(2)の帰結としてのpseudo characterの特質とcharacter期待への応答

 (2)において、平凡化した個人の隠蔽としてのtrue characterの隠匿過程を示した。この場合において、pseudo characterはその平凡性を隠すための方策なので、それは必然、極端化する。朝日新聞の例にあるような「毒舌キャラ」の毒舌は極端な言説になるし、「天然キャラ」の天然性は現実世界ではありえないようなものになる。このように極端化しておけば、なかなか「かけがえのある自分」という結論を導き出すのは(pseudo characterの中において)難しくなる。

 こういった極端化という傾向は、他者から付与されたpseudo characterとも親和性が高い。なぜなら、Ⅱでみたように、付与されたpseudo characterは断片的な情報を過大評価・論理飛躍して作られたものだからである。目的を有したclusterに付与されたpseudo characterにおいても同様である。この場合のcharacterは目的達成のものなので、当然その傾向が強まれば強まるほど、当該目的達成に大きく貢献しうると言えよう。

 すなわち、平凡な個人を隠したいということと、characterの期待に応えるということの利害は一致しているということである。このようにして、外部からの付与されたcharacterを演じるということも無理なことではないということになる。

 

 

Ⅳ.pseudo characterの本質とその変更可能性

(1)はじめに

 Ⅳでは、次の代替方法である「より演じやすいpseudo characterに演じ替える」ということが可能なのかということを検討する。この検討に入る前に、まずpseudo characterの隠された機能・本質について考察する。

 

(2)pseudo characterの本質

 pseudo character設定の利点として、いったい何があるのであろうか。そもそも、pseudo characterの本質とは何であろうか。

 結論から言えば、pseudo characterはコミュニケーションメディアである。

 近代・現代社会において、個人主義的社会が浸透し、各個人は個別化された。自己と他者の相違がたえず社会教育と社会現象によって意識され続けてきた。それゆえ、もはや各個人は他者について熟知することなどできないし、できないと各個人は意識下にしろ無意識下にしろ認識している。完全に相手方の行動を読み取るということは不可能になったわけである。

 そういった中、コミュニケーションメディアは、その絶対的不可知の他者の行為結果を先取りできる装置として登場した。たとえば、コミュニケーションメディアの一つとして、貨幣がある。貨幣を用いれば、たとえ交換相手がどんな人間であるか一切知らなくても、商品の特質を価格に還元して交換を成立させることができる。

 pseudo characterについても同様である。各cluster構成員は各個人のpseudo characterを共有する。そして、各構成員はそのpseudo characterが偽りのものではなく、true characterであるかのように信じて(擬制して)、それに基づいた行為結果を予測することができる。行為者たる各個人は、行為選択可能性が保障されていながらも、そのpseudo characterに準じた、一貫した行為を要求される。これを相互に互いのpseudo characterを共有することで、コミュニケーションを円滑にしているのだ[4]。この役割を果たすために、pseudo characterは本来的に人間が持っているような多様で複雑なcharacterの特性を無視して、単純化・極端化されたものになる。朝日新聞の記事でもわかるように、「毒舌キャラ」の行動原理は極めて単純化されたものであった。

 

(3)pseudo characterの変更可能性

 (2)でのべたように、pseudo characterはコミュニケーションメディアの一種である。このことを踏まえて、pseudo characterを後になって変更できるかを考えてみよう。より犠牲の少ない、演じ疲れないpseudo characterへ演じ替えるという代替方法の検討である。

 pseudo characterをコミュニケーションメディアとして機能させるために不可欠なものとして、このシステムに対する信頼(システム信頼)がある。すなわち、pseudo characterを信頼するということへの信頼である。このシステム信頼が失われれば、行為結果の先取りを期待することができない。コミュニケーションメディアとしての機能を失うことになる。

 pseudo characterを変更させるということは、このシステム信頼にどのような影響を及ぼすことになるか。システム信頼を著しく損なわせることになるであろう。パフォーマティブな法秩序における法がその安定性を求められているように、pseudo characterもcharacterを単純化させた一種のルールなのであるから、同様に安定性を求められている。pseudo characterを朝令暮改的に自分の好きなように変更するということは、そういった安定性を阻害し、ひいてはそのシステム信頼を失わせる結果になる。各個人はコミュニケーションメディアとしての権力たるpseudo characterに縛られていると同時に、その権力の既得権者でもあるのだから、これを放棄するわけにはいかない。

 かくして、その獲得プロセスには様々な場合があるとしても、一度決定されたpseudo characterはそのシステムの恩恵にあずかろうとする限り、決して変更することを許されない[5]。変更できるときはそのclusterから脱退するときだけである。

 

 

Ⅴ.結論

 本稿は、Ⅰでも述べたように、なぜ「キャラ疲れ」してまでも、pseudo characterを演じようとするのかということについて考察したものである。

 まず、Ⅱでpseudo characterが付与される過程をその準備段階として検討した。それを踏まえて、Ⅲではtrue characterを他者に提示する困難性を平凡化する個人という要因から説明し、pseudo characterの必要性を示した。さらに、Ⅳではpseudo characterの本質をコミュニケーションメディアとしたうえで、たとえどれだけ「キャラ疲れ」しているとしても、決して他のcharacterに変更することはできないということを論証した。我々は平凡な我々という事実を隠ぺいするためにpseudo characterを活用しようとする。そして、pseudo characterをコミュニケーションメディアとして活用した瞬間に、その権力にclusterに所属している限り縛られることになる。これが、本稿で立てた問いに対する回答になるであろう。

 pseudo characterはある意味で極めて有益である。それは、Ⅳでも述べたように、匿名化・希薄化した現代社会において有効に円滑にコミュニケーションを成立させる「擬似的な単純化極端化人格」だからである。しかし、一方pseudo characterはコミュニケーションメディアとしての権力でもあるので、それに縛られ、結果として「キャラ疲れ」を引き起こしてしまう。この両面性を持つpseudo characterとどう戦術的に向き合っていくべきなのか、という点に対しては、残念ながら今回では検討できなかった。本稿で示したメカニズムを基にその点についても探っていきたい。

 

 

<参考文献>

井上・船津編『自己と他者の社会学』(2005年、有斐閣アルマ)

Nルーマン佐藤勉監訳)『社会システム理論(上)』(1993年、恒星社厚生閣

Nルーマン(長岡克行訳)『権力』(1986年、勁草書房

正村俊之『コミュニケーション・メディア 分離と結合の力学』(2001年、世界思想社

 

[1] 朝日新聞(2010年11月20日、朝刊)より引用。

[2] 一応断りを入れておくが、本稿はその回答を個人の持つ集団からの承認欲求の強さに還元しようとするものではない。そういった承認欲求や集団への所属欲求を前提として、なおもキャラクターを演じようとするのはなぜなのかを問いたいのである。

[3] SNS上で特定の芸能人やゲーム、アニメ、漫画の類を愛好しているアカウント同士が集まったものをクラスタと呼んでいる。実際にあるものを例示すれば、お笑い芸人が好きなアカウントがつながりあっているもの(お笑いクラスタ)やBanG! Dream(スマホゲームの一つ)クラスタがある。なお、今例示したものは実際に筆者が加入しているものである。

[4] この戦術は、SNSでの匿名化・希薄化された個人とのコミュニケーションで極めて有効であるといえる。その証拠に、twitterのプロフィール欄にはたいていpseudo characterが明記されているものである。

[5] 朝日新聞の記事でも、登場する女子生徒は「キャラ変えしたい」と悩んでいるが、その条件として「高校になったら」としている。これはそのclusterではもう固定化されたpseudo characterは決して変更できないことを如実に示している一例と言えよう。